2012.10.29-11 Maputo Mozambique

2012.11.08-10 モザンビーク・マプト




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2012年11月6日船は、南アフリカ共和国のダーバンを出港、残り5000キロリッターの軽油を揚荷するため11月8日隣国モザンビークの南部の港、マプトの入口に到着する。ダーバンからは1日半の航海であった。代理店から連絡に寄りマプト湾に入って行く、あちらこちらに浅瀬がある広大な湾内を、海図に記された安全な水路に従って入って行く。船底から海底までの高さを専門用語でアンダー・キール・クリアランス(UKC - Under Keel Clearance・余裕水深)という。そのUKCが最も水深が浅い場所では、1.5m〜2mしかない。船の速度を上げると船底と海底の間の水流が変化し、圧力が低下するため、船体が沈下し更にUKCが減少するので、少し速力を下げ進んで行く。緊張の中、4時間ほど走って、やっとの思いで広大なマプト湾の奥にある錨地に到着する。

マプト(Maputo)は、モザンビークの首都。同国の南部に位置し、南アフリカ共和国の国境沿いにある。 天然の良港で、モザンビーク最大の近代的な都市である。マプトは、18世紀にポルトガル人により創建された。1544年にこの地方を最初に探検したポルトガルの貿易商人ロウレンソ・マルケスの名にちなみロウレンソ・マルケスと命名された。1787年ポルトガルの要塞が築かれ、1907年ポルトガル領東アフリカの首都になった。独立後、都市の名前は現在のマプトに改称された。工業(セメント、陶器、家具、石鹸、ゴムなど)が盛んで、港はアフリカ東岸最大で南アフリカ共和国、スラワジ、ジンバブエなどの輸出入港としても利用されている。総人口は100万である。

4時間錨地で待ったのち、パイロット(水先案内人)が乗船してくるとの連絡があり錨を巻き上げる。マプトは、テンベ川の河口に位置し、港はその河口添いにある。港内に入るには、広大な河口の浅瀬を掘り下げて作られた狭い(幅約200メートル)水路を遡る。水路の入口で2名の現地人パイロットが乗船してくる。水路のブイや航路標識を頼りに水路を走っていく。しばらくすると前方に沢山のビルが立ち並ぶ近代的な都市が見えてくる。マプトだ。水路のブイは小さくて貧弱で玩具のようだ。やがて船は河川沿いに造られた長いマプト港の護岸沿いの水路を走っていく。河川添いには、国会議事堂かなにかだろうか、立派な建物が見える。ポルトガル風の建物も見える。更に川をさかのぼると大型船の岸壁があり10隻ほどの大型貨物船が着岸している。日本の船会社の自動車専用船もおり中古車らしき車を陸揚げしている。 更に湾曲した河川の狭い水路を1.5時間ほど遡ったところにある桟橋に到着し、着桟する。隣には石炭やセメント?の積出桟橋がある。周囲は広大な湿地帯の原野である。遠くにマプトの市街地が見える。

着桟後、入港手続のため入国管理官、税関、検疫官が乗船してくる。船が持っている免税品のタバコやウイスキーをたくさん要求されると思っていたが、紳士的でわずかな量で済んだ。 テレビ放送を受信できたので、見てみるとあるチャンネルは、高校生のダンスのコンテストをしている様子の番組だった。ポルトガルの影響がありとても明るい国民性のようだ。11月9日の夕方揚荷作業を終え、出港手続きとパイロットの乗船を待つ。結局6時間遅れで代理店が乗船し、出港準備が整う。祭りがあり車が渋滞していて乗船が遅れたようだ。真夜中船は離桟・出港する。船は、闇夜の中に浮かぶ美しいマプトの町の夜景を見ながら水路を下っていく。船は、水路の出口でパイトットを降ろし、浅瀬の多いマプト湾を無事に抜けインド洋に東に向かう。



丹沢山
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